捕鯨の歴史

捕鯨史年表

日本と世界が歩んできた捕鯨にまつわる歴史についてまとめました。
どの国がいつ頃捕鯨をはじめ、いつ頃捕鯨を中止し、いつ頃捕鯨反対派に回るようになったかも大まかにわかります。
日本はその流れに翻弄されながらも、持続可能な捕鯨を続けてまいります。

ハラソ祭
現在も続く古式捕鯨を模した祭り「ハラソ祭」

鯨類利用の史跡

先史において捕鯨が存在していたかどうかは推測の域を出ませんが、
日本各地の遺跡で当時の人々が鯨類を利用していた
可能性のある遺物が発見されています。

縄文時代早期
(約6,000年前)
長崎県田平町にあるつぐめの鼻遺跡で、鯨類捕獲や解体に使われたとみられる石銛や石器が出土
縄文時代前期
(約5,000年前)
石川県能登町の真脇遺跡や富山県氷見市の朝日貝塚などで大量の鯨類の骨が出土
縄文時代中期
(約4,000年前)
九州各地の遺跡で鯨類の椎骨を製作台にした「鯨底土器」が出土
弥生時代
(約2,000年前)
長崎県壱岐の原の辻遺跡で、捕鯨の様子とみられる線刻画が描かれた土製の壷が出土

捕鯨の始まり

世界の様々な場所で捕鯨が始まり、広がった時代です。
日本でも沿岸部の様々な場所で捕鯨が広がりました。

9世紀 ノルウェー、フランス、スペインが捕鯨開始
12世紀 日本で手銛による捕鯨が始まる
1606 太地(和歌山)で「鯨組」による組織的な捕鯨が始まる
1612 房州(千葉)でツチクジラの手銛漁が始まる
1675 太地で網取り式捕鯨※1が始まり、それにより捕鯨が急速に普及する
1712 アメリカでマッコウクジラ漁(アメリカ式捕鯨)が開幕
1841 ジョン万次郎が漁中に遭難、アメリカの捕鯨船に救助され、そのまま米国に渡る
1851 ジョン万次郎が帰国、アメリカで学んだ語学、航海術、造船技術をもたらす
1853 アメリカのペリー提督が浦賀に来航、鎖国中の日本を捕鯨船の補給基地にするべく開国を要求
1864 ノルウェーで近代捕鯨が発展
1868 ノルウェーで捕鯨砲が完成、ノルウェー式捕鯨※2の開幕
1879 出漁中の遭難で太地の捕鯨者111名が死亡。「大背美流れ」と呼ばれるこの事故をきっかけに太地の鯨組は衰退する
古式捕鯨図
古式捕鯨の様子
古式捕鯨図
解体された鯨は部位ごとに整理、活用された

※1:鯨に網をかけて銛で突く漁法
※2:船の船首に据え付けた捕鯨砲から銛を発射して捕獲する漁法。泳ぎの速い鯨の捕獲が可能になり、近代捕鯨の発展に大きく寄与した


捕鯨の産業化と規制の兆し

世界中で盛んに捕鯨が行われると共に、より効率的な方法が模索されました。
その一方で、国際的な捕鯨規制への動きも見られるようになりました。

1899 日本がノルウェー式捕鯨を開始
1903 世界最初の鯨工船(オランダ)が北極海のスピッツペルゲン海域に出漁
1904 ノルウェーが南大西洋の南ジョージア島に捕鯨基地を設営、南氷洋捕鯨の開幕
1905 南氷洋に最初の鯨工船(ノルウェー)が出漁
1906 鮎川に近代的な捕鯨基地が完成し、日本の近代捕鯨が開幕
1925 スリップウェー※3を設けた母船(ノルウェー)が初めて出漁
1931 第一回国際捕鯨協定締結
1932 クロー(尾羽はさみ)※4が登場
1934 日本が南氷洋での母船式捕鯨※5に参入

※3:捕鯨母船の後部に設置されている鯨を引き上げるための滑り台状の通路
※4:鯨を母船に引き上げる際に尾羽(尾ビレ)を挟み込む漁具
※5:捕鯨を行う船(キャッチャーボート)と、洋上で鯨の解体や加工を行う捕鯨母船で船団を組む漁法

現在も残る「鯨の過去帳」
現在も残る「鯨の過去帳」
和歌山県太地町の「くじら供養費」は捕鯨関係者によって建立された。
和歌山県太地町の「くじら供養碑」は捕鯨関係者によって建立された

捕鯨オリンピックと捕鯨の衰退

各国が鯨類資源を必要とする中、資源の枯渇が心配されるようになり、
オリンピック方式をはじめとする管理方式が模索されました。
そうした中で、採算性の悪化によって捕鯨から撤退する国も増えていきました。
そして、IWCは商業捕鯨モラトリアムを採択。
商業捕鯨は世界で中止されることとなりました。

1940 アメリカが捕鯨中止
1941 日本は大戦の勃発と同時に母船式捕鯨を中断
1946 国際捕鯨取締条約締結
シロナガス換算(BWU)※6、オリンピック方式※7の採用
日本が南氷洋捕鯨を再開
1948 国際捕鯨委員会(IWC)設立
1949 第一回国際捕鯨委員会の開催
1951 日本がIWCに加盟
1959 オリンピック方式の廃止、自主宣言出漁開始
1962 国別割当制の実施
1963 南氷洋ザトウクジラの捕獲禁止
イギリスが捕鯨中止
1964 南氷洋シロナガスクジラの捕獲禁止
1972 国連人間環境会議で「商業捕鯨10年間モラトリアム勧告案」が採択される
シロナガス換算(BWU)方式の廃止、鯨種別捕獲頭数枠の設定
ノルウェーが南氷洋捕鯨から撤退
日本がミンククジラの捕獲を開始
1975 新管理方式(NMP)の採用
1976 南氷洋ナガスクジラの捕獲禁止
1978 南氷洋イワシクジラの捕獲禁止
1979 第31回IWC会議(ロンドン)でインド洋鯨サンクチュアリーが採択される
南氷洋での捕鯨は過酷な環境で行われた。
南氷洋での捕鯨は過酷な環境で行われた
スリップウェーの出現は捕鯨に革命を起こした
スリップウェーの出現は捕鯨に革命を起こした
捕獲された鯨は無駄なく発揚された
捕獲された鯨は無駄なく活用された

6:シロナガスクジラから採れる鯨油の量を基準に、ナガスクジラ2頭、ザトウクジラ2.5頭、イワシクジラ6頭をそれぞれシロナガスクジラ1頭分として捕獲頭数を換算する方式。捕獲効率の良い大型鯨の資源枯渇を招いた
※7:鯨の捕獲頭数の国別割当が行われる前の管理方式。全体の頭数制限の枠内で各国船団が競い合うように捕鯨を行ったことで資源の枯渇を招いた

商業捕鯨モラトリアムと再開への歩み

持続的利用支持国と反捕鯨国の対立が激化。
妥協案はことごとく挫折し、IWCは機能不全のまま時間だけが過ぎていきました。

1982 第34回IWC会議(ブライトン)で商業捕鯨モラトリアムが採択される。科学的根拠が示されない状況での決定に、日本は異議申し立てをする
1985 日米協議の結果、日本は商業捕鯨モラトリアムへの異議申し立てを撤回
1987 日本は南氷洋での商業捕鯨を中止し、調査捕鯨(JARPA)を開始
1988 日本はミンククジラとマッコウクジラの沿岸捕鯨を中止
1990 IWCが南氷洋のミンククジラ資源量を76万頭と評価
1992 アイスランドがIWCを脱退、北大西洋海産哺乳動物委員会(NAMMCO)設立
IWCで改訂管理方式(RMP)が完成
1993 ノルウェーが商業捕鯨を再開
1994 IWC会議で南大洋鯨サンクチュアリーが採択される
日本が北西太平洋でミンククジラの調査捕鯨(JARPN)を開始
2000 日本がニタリクジラとマッコウクジラを追加して第2期北西太平洋鯨類捕獲調査(JARPNII)を開始
2002 第54回IWC会議が山口県下関市で開催される
日本がイワシクジラを追加して第2期北西太平洋鯨類捕獲調査・本格調査を開始
2003 第55回IWC会議(ベルリン)において反捕鯨国提案の「保存委員会」設立決議
2005 日本がクロミンククジラとナガスクジラを捕獲対象に第二期南極海鯨類捕獲調査(JARPAII)を開始
2006 第58回IWC会議(セントキッツ・ネーヴィス)において、商業捕鯨モラトリアム不要の見解と共にIWCの正常化を求める「セントキッツ宣言」が採択される
アイスランドが商業捕鯨を再開
2007 東京でIWC正常化会合を開催
2008 IWCの機能不全を打開するため、「IWCの将来」プロセスを開始
2010 「IWCの将来」プロセスに関し、議長・副議長から包括的合意案が提示されたが、反捕鯨国側がこの案をベースに議論することを拒否したため、本プロセスは事実上破綻
2012 IWC科学委員会は南極海のクロミンククジラの新たな資源量推定値として51万5千頭に合意
2014/3 国際司法裁判所(ICJ)は日本が実施する第二期南極海鯨類捕獲調査(JARPAⅡ)について特別許可の発給を差し止めるよう判決
2014/4 衆議院と参議院の農林水産委員会で調査捕鯨の継続実施を求める決議を満場一致で採択
2014/11 日本はJARPAⅡに代わる南極海における新たな鯨類調査計画案をIWC科学委員会へ提出
2017/6 日本はJARPNⅡに代わる北西太平洋における新たな鯨類調査計画案をIWC科学委員会へ提出
2017/6 「商業捕鯨の実施等のための鯨類科学調査の実施に関する法律」を公布、施行
現在の調査プログラムでは、捕獲調査以外に非致死性の調査も行われている。
捕獲調査以外に皮膚採取などの非致死性調査も行われている
現在までも、そしてこれからも調査は続く
これからも調査は続くと思われていたが・・・

商業捕鯨再開で新たな時代へ

IWCを脱退した日本は、31年ぶりに商業捕鯨を
再開しました。
領海、及び排他的経済水域(EEZ)内での操業で
持続可能な捕鯨の新たな時代が幕を開けました。

2018/12 日本政府はIWCからの脱退を通告し、2019年7月から商業捕鯨を再開すると表明
2019/6 日本がIWCから脱退
2019/7 日本は改訂管理方式(RMP)による厳格な資源管理のもと、領海※8、及び排他的経済水域(EEZ)※9内で商業捕鯨を再開
南氷洋での捕鯨は過酷な環境で行われた。
母船式捕鯨では当面ニタリクジラが主要対象種となる

※8:基線から外側12海里(約22.2km)までの海域。沿岸国の主権が及ぶ範囲
※9:基線から外側200海里(約370km)までの海域(領海を除く)。水産資源について、沿岸国が排他的な管轄権を行使できる

用語解説

スリップウェー

捕鯨船から母船へ捕獲した鯨を引き渡す際に、鯨が引き上げられる滑り台のような通路で、母船の後部に設置されている。スリップウェーが導入されたことによって解体作業を甲板上で行うことが可能となり、作業行程の効率が格段に向上した。スリップウェーの発明は近代捕鯨史上、重要な技術革新であったといえる。


クロー(尾羽はさみ)

大型の鯨を母船に引き上げる際に、鯨の尾羽(尾びれ)に引っかける漁具。ミンククジラの捕獲調査には使用されていないが、シロナガスクジラやナガスクジラを主な捕獲対象としていた時代には、スリップウェーの機能を強化し、渡鯨作業に重要な役割を果たしていた。


シロナガス換算(BWU)方式

鯨油を主な目的としていた捕鯨全盛時代、採油量を基準にナガスクジラ2頭、ザトウクジラ2.5頭、イワシクジラ6頭をそれぞれシロナガスクジラ1頭として捕獲頭数を換算していた。
このように鯨種別の管理を行わなかったため、採算効率の高い大型鯨から乱獲されることになり、シロナガスクジラを筆頭とした大型の鯨が激減する結果となった。


オリンピック方式

捕獲頭数の国別割当が実施される以前は、全体の頭数制限の枠内で、各国船団が一頭でも多く獲ることを競っていた。各国船団は捕獲した鯨の頭数をノルウェーのサンディフィヨルドにある国際捕鯨統計局に毎週報告しなければならず、統計局はこれらの情報から捕獲枠に達する日を予測、一週間の余裕を持って各船団に通知する。この日をもってすべての船団は操業を中止しなければならない。この捕獲管理方式がオリンピック方式と呼ばれるものである。このように各国船団間の競争を煽るような管理方式が、資源を枯渇へと導くことになった。

新管理方式(NMP)

1974年のIWC会議でK.アレンが提案し、1975-76年の南氷洋捕鯨から採用されるようになった 鯨資源の新しい管理方式。こらは三分類方式あるいはMSY(最大持続生産量)方式と呼ばれるもので、 鯨資源を初期管理資源、維持管理資源、保護資源の3つのカテゴリーに分類した上で、保護資源を捕獲禁止とし、 維持管理資源と初期管理資源からその最大持続生産量の一定割合の捕獲を許可する。 MSYとは資源の繁殖率が最高に達する最適水準で年間に増える量である。この管理方式は資源保護のみに 重点を置いた厳格なものであったが、多くの生物学的情報を必要とする為、不十分な情報の下ではうまく機能しなかった。

初期管理資源
最適水準を20%以上上回る資源
維持管理資源
最適水準のプラス20%からマイナス10%の資源
保護資源
最適水準を10%以上下回る資源

改訂管理方式(RMP)

新管理方式の失敗の後、入手可能なわずかな情報の下でも機能する資源管理方式を求めて、 IWC科学委員会で作業が進められた。いくつものテストが繰り返され、5つの候補案の中からJ.クックが提案した管理方式が 採択され、1992年に改訂管理方式として完成した。この方式は生物学的な情報を一切必要とせず、推定資源量と過去の捕獲記録だけで 捕獲枠を算出することができる。また、この管理方式はストック(生活集団単位)ごとに適用されるため、安全性が非常に高い。改訂管理方式の完成により、 捕鯨再開の条件である改訂管理制度(RMS)の科学的作業は達成された。

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